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プロフィール

本記事では今まで40年以上生きてきた僕の人生を赤裸々に語っていきたいと思います!

このような内容は仲の良い友達にさえ話した事がありません。長いですが是非最後まで目を通して頂けたらと思います!

光GENJIに憧れた幼少時代

今でも鮮明に記憶に刻まれているのが子供時代に見ていた光GENJIの姿です。

小学校1、2年生頃だったでしょうか。当時の光GENJIはまさにスーパースター。

テレビに映る彼らの姿は超絶カッコよく、どうにかして自分も同じようにあのブラウン管に入りたいと思い、いつも真似をして歌ってました。

光GENJIの文房具を買い揃えてプロマイドやポスターも購入。

もちろんローラースケートもやってました。

当時大好きだった諸星君のポスターは大人気で近所のショップでは売り切れ。泣く泣く山本君のポスターを親に買ってもらいました。(山本君ごめんなさい)

この幼少期に受けた光GENJIの影響は、その後もずっと自分の中に残りました。

大人になってからも芸能の世界へ憧れを抱き生きてきました。

光GENJIの後は志村けんさんに憧れ、中学高校に入ってからは尾崎豊やB’zにも憧れ、多大な影響を受けました。

高校時代

*高校2年生の頃。毎年キャンプへ行っていた「あさり」の海

この頃の重大な出来事は演劇部に入った事です

これが今に至るまでの自分の人生を決定づけました。

入った高校は男子校。

髪型自由、服装自由、偏差値が高く、共学の第一志望の高校の受験には失敗しました。

高校の入学式では見渡す限り男の山。

今までの人生で見た事がない数の男を目の間にして、絶望を感じました。笑

高校生活では彼女か欲しかった、、。

自分には一つ上の兄がいて、彼は一年先に同じ高校に入学してました。そして演劇部に所属していました。

入学して間もなく、彼からこんな誘いがありました。

「まさと、演劇部に入らないか?新入部員が入らなくて」

「いや、無理無理。興味ない」

演劇部のイメージはオタクが所属するというもの。

当時の自分は尾崎豊に憧れ、クールで硬派を気取っていたので演劇部なんて以ての外でした。ヤンキーにも憧れていました。

しかし、兄は諦めずに度々自分を演劇部に誘いました。

そしてこんな誘い文句もありました。

「まさと、演劇部に入らないか?演劇部に入ったら彼女できるぞ。」

「え?

「女の子との出会い、めっちゃあるぞ!」

「え?もっと詳しく聞かせてくれ。

「合同公演と呼ばれるものがあって、他校の生徒と一緒に作品を作る機会が一年に何度かあるんだ。札幌じゅうの高校から学生が集まるぞ。女子校の生徒も多いから、皆それで彼女ができるんだ」

このような言葉に心が揺らぎ、結局演劇部に入りました。笑

当時は演劇部に入った事を他人に言うのが恥ずかしく、クラスメイトには内緒にしてました。

ちょっとヤンキーにも憧れて、悪ぶっていた自分が誘惑に負けて演劇部に入部。

絶対に人に言えません。

期待通り、演劇部は出会いの場としては最高でした。

最高過ぎるぐらいでした。

彼女もできました。

しかし、元々は女性目的で入った演劇部、いつの間にか芝居の魅力にも取り憑かれていきました。

演技をする、人前でパフォーマンスをするという事に快感を覚えました。

小さい頃、光GENJIや志村けんさんに憧れていた気持ちを無意識に形にしていたのかもしれません。

高校卒業後は芝居の勉強をしたい、役者になたいと考えるようになりました。

そして東京にあるミュージカルの専門学校へ入学しました。

その後、人生の多大な時間を捧げる事になるタップダンスとはここで出会います。

専門学校時代

今思い返すと専門学校で学んだ事はとてもレベルが低く、子供騙しのようにも感じます。

しかし、当時は毎日自分の好きな事が学べるその学校生活が楽しく、毎日休まず通いました。

学校では日本舞踊、バレエ、ジャスダンス、タップダンス、芝居、声楽のクラスがありました。劇団四季出身の先生が多く、卒業後は劇団四季の研究生になるのがゴールのような学校でした。

その頃は芸能界にも憧れ、ドラマや映画の俳優になる事も夢見ていました。

しかし、そんな事を人に言うのはとても恥ずかしく、どうしたらなれるのかさえわかりません。学校生活を送るうちにいつの間にか、舞台役者になる事が夢に置き換わっていきました。

2年生になると卒業後のことを考え始め、生徒達は皆オーディションを受け始めます。

自分は劇団四季やその他の劇団、有名テーマパークのオーディションを受けました。

第一志望だった劇団四季には受かりませんでしたが、なんとか有名テーマパークには引っかかりました。

専門学校に2年通っても卒業後の所属先が決まる人はごくわずか。ほとんどは卒業してもアルバイト生活をしていたので、自分はとても運が良かったと思います。

仕事内容やテーマパークの名前は契約上詳しく言うことができません。人前でパフォーマンスをする仕事でした。

ちなみにこの学校に通っていた同級生の中には、その後ライオンキングやレミゼラブルで主役を演じたり朝ドラに出るようになった成功者もいます。

専門学校を卒業した後も舞台役者への夢は諦めていませんでした。

※専門学校の卒業式

テーマパーク時代

テーマパークで働き、タップダンスのスタジオに通い、たまに舞台のオーディションを受けていました。

しかし、なかなか合格する事はできませんでした。

オーディションではたまにこんな光景を目にしました。

タップダンスのミュージカルなのに、タップダンスを全く踊れない人が合格する、というものです。

タップダンスの審査中に完全に立ち止まり、全く動けなかったにも関わらず、オーディションの合格者発表で名前が呼ばれるのです。

それは有名事務所に入っていたり、元劇団四季という経歴のある人々でした。

こういう舞台役者の世界は実力主義だと思っていたので、このようなコネ丸出しの審査に嫌悪感を覚えました。

更に、自分が受けていた「東宝ミュージカル」のオーディションというのは既に主役が芸能人に決まっていました。僕達一般人が受けられる役はアンサンブルと呼ばれる群衆の中の一人の役でした。

役者になりたいと思ってましたが、日々の努力や実力が全く評価されないこの理不尽な世界に疑問を抱くようになりました。

そしてもっと自分の実力が結果に直結するようなものに挑戦したいと思うようになりました。

そこで自己分析をしました。

・歌は好きだけど、いくら練習しても低い声が出るようにならない。歌に限界を感じる。

・ジャズダンスは好きだけど、ダンサーになるには体の線が細すぎる。クラシックバレエは今から本格的にやるには遅い。

・タップダンスは卒業後も好きで続けている。こちらは体型などに左右されないんじゃないか?むしろ自分に向いているかもしれない。

通っていたタップダンススタジオの先生は東宝ミュージカルの振付をしていました。世の中には振付家という職業があるのを知り、それにも興味を持ち始めていました。

当時は21歳でしたが、タップダンスの世界なら、まだ間に合う気がしました。

タップが好きだからというよりは、自分に向いているんじゃないか?という思いからタップダンスに挑戦しようと気持ちが傾いていきました。

テーマパークの仕事は一年と少しで辞め、そこからタップの世界に没頭していきました。

22歳の決意

初めはタップの振付家や先生になるのが夢でしたが、それも少しずつ変化していきました。

それまでばジャズやヒップホップ、バレエなどのついでにタップをしている人々と接してましたが、タップダンスのみを踊る人々に出会う機会が増えました。

タップダンスだけを専門に踊る「タップダンサー」と呼ばれる人々がいる事を知りました。

それらの人々の足は今まで見ていたタップのテクニックとは違い、足で自由に様々なリズムを奏でました。

アメリカ帰りのタップダンサーのパフォーマンスを見たり、その人達のクラスを受けたり、直接話を聞くうちに更にタップダンスにはまっていきました。

そして次第に自分もアメリカに行きたいと思うようになりました。

でもその時はまだ自分のタップへの思いが本物かどうか不安がありました。それまでギターや英会話、ヒップホップのダンス等、色々と興味を持ち挑戦しましたが、長く続いた事がなかったからです。

このタップへの想いも今だけじゃないか?と自分の夢を懐疑的に思いました。

そして22歳の誕生日、自分はある決意をします。

これから毎日タップダンスの練習をしよう。そしてそれが一年間続いたら23歳の時にタップの本場アメリカへ行こう、と。

その自分との約束を守る為に次の日からタップの練習を開始しました。

スタジオへ行って先生のレッスンを受ける事もありましたが、主に自分で練習をしました。スタジオ代を毎日払うお金がなかったので、近所にある公園で練習しました。

練習に使う木の板は、たまたま公園の物置にあったのを利用しました。

とにかく毎日公園へ行き、タップダンスの練習をしました。

雨の日も風の日も。

雨の日はカッパを着て練習しました。

時には蚊の大群に襲われながら、時には近所の人や警察に怒られながら。

バイトを朝昼掛け持ちする日もあったので、結局1年間毎日というのはできませんでしたが、1年のうち350日ぐらいは練習しました。

目標を完全に達成できたわけではありませんが、飽きやすい自分がタップダンスへの想いを持ち続けることができたのが嬉しかったです。

そして23歳の時、アメリカへ行きました。

3ヶ月の短期滞在でした。

新しい生活

アメリカ、ニューヨークでの生活は毎日が刺激的で、タップ漬けの日々でした。

レッスンを受けまくり、スタジオや公園で毎日何時間も練習しました。

日本に帰ってきてからは一時的に札幌に拠点を移しました。そして札幌にあるダンススタジオでタップダンスの講師として働きました。

一年程講師をし、その後もう一度アメリカに短期滞在して、25歳から長期でアメリカに住み始めました。

当時の地元の友達の気持ちを数年後に聞きました。

「あの時、わざわざアメリカへ行く理由がわからなかったよ。だって札幌でタップの先生になったよね?それってゴールじゃないの?好きな事を仕事にして夢が達成されたのに、それを捨ててアメリカに行く意味がわからなかったわ。」

なるほど。確かに言っている事はわかります。でもある程度目標が達成されると、次の目標が出てきます。

テーマパークの仕事も、タップダンスの先生も人生のゴールとして満足できるものではありませんでした。

アメリカでの生活

*ニューヨークで毎週行われたタップイベント。司会もやらせてもらいました。

25歳。アメリカに本格的に住み始めた自分のタップへの思いは日に日に増していきました。

毎日何時間もタップの練習をしました。

アメリカのタップダンサーからも多くの刺激を受けました。

自分でこのような事を言うのは恥ずかしいですが、いつの頃からか自分はタップダンスの世界で一番になりたいと思うようになりました。

語学学校へ通い、毎日激しく練習をし、どこかでタップが踊れそうと聞けばどこへでも踊りにいきました。アメリカにはクラブやジャズバーなど、タップを気軽に踊れるところがいくつかあります。

世界一のタップダンサーになりたい、その為に考えつくあらゆる努力をしました。

そして気がつけばNYで行われる様々なショーで踊るのは当たり前になっていました。大きな会場ではありませんが、自分が主催するタップのソロライブも何度か行いました。

アメリカ人が参加するヒップホップのダンス大会で、ソロタップダンサーとして出演し、優勝したこともあります。

アーティストの殿堂、アポロシアターで行われるアマチュアナイトと呼ばれる大会に参加した事もあります。

アポロシアターはマイケルジャクソンを含め様々な有名アーティストがパフォーマンスをしてきた伝統的な劇場です。

自分にとって憧れの場所でした。

パフォーマーは歌手、ダンサーがほとんどで、その技術はアマチュアとは思えないぐらい、とてつもなくハイレベルです。

この一年を通して行われる大会では準決勝のトップドックというところまでいきました。もちろん優勝を目指していたので、負けた時はとても悔しかったです。

(*毎日のように夢を語り合っていたルームメイトの斎藤君)

タップの神様との出会い

(*NYジョイスシアターで行われたタップダンスのショウ。一番左がセィビオン)

20代前半から30代にかけて、タップに人生を捧げた自分に神様からご褒美がありました。

それはタップダンスの神様とも言われるセィビオン・グローヴァーのカンパニーのオーディションに合格した事です。

セィビオンは子供の頃からアメリカの教育系テレビ番組、セサミストリートに出演し、活躍していました。

20歳の時に振り付け、主演をしたブロードウェイミュージカル「Bring in the Noise, Bring in the Funk」は一世を風靡し、トニー賞3部門を受賞しました。

まさにタップ界の頂点に君臨する人物で、現在のタップシーンの礎を築きました。彼に影響受けてないタップダンサーはいないと言っても過言ではないでしょう。

タップダンサーになろうと決めてから彼の事を知り、初めて彼のビデオを見た時は衝撃を受けました。世の中にこんなタップダンサーがいるんだと驚き、それからずっと憧れていました。

NYに来てからは彼がどこかで踊ると聞けば必ず足を運びました。

彼をたまたま町で見かけた時は緊張のあまり手足が震え、声をかける事もできず遠くから見ていたくらいです。

そんな彼のカンパニーの一員になることができるなんて夢にも思っていませんでした。

これは奇跡。自分の人生で一番のハイライトかもしれません。

セィビオンのカンパニーのリハーサルは週に2回行われました。レベルが高く、ついていくのもやっとでしたが、なんとかくらいついていきました。

彼は僕達カンパニーメンバーに家族のような愛情を注ぎ、大切にしてくれました。

このカンパニーではショウに出演したり、アメリカのテレビ番組にも出演しました。

カンパニーには一年半程所属しました。

(*カンパニーメンバーと)

転落

セイビオンと夢のような時間を過ごしましたが、その後自分のタップ人生は思わぬ方向へ進んで行きます。

セイビオンの元を離れた後、再び自分で練習をする時間が増え、その時に足に変な癖をつけてしまったのです。

セイビオンの指導を受けてから様々な気づきがありました。それまでの足の使い方が間違っていたことを知りました。その流れで練習中に、ここも違うんじゃないか?あそこも違うんじゃないか?と疑問に思うようになりました。

そこで新しい取り組みを始めたのです。

しかし、再度独学に戻り、続けたその新しい取り組みが、完全に間違っていたのです。

気づいた時は時既に遅し。足に変な癖がつきました。

どこかに変な筋肉がついたのか、足を真っ直ぐ出してるつもりでも、戻ってくる時には曲がり、音が上手く鳴らなくなりました。

なんとかそのクセを治そうと更に毎日何時間も取り組みましたが、結局足が戻る事はありませんでした。

そしてそれまで当たり前のようにパフォーマンスをしていた自分は表舞台から姿を消したのです。

(※日本に帰って来てから久しぶりに出演した舞台)

現在

あれから13年が経過しました。しかし、まだその足は治らず、思うように動かす事ができません。

日本に帰って来てからはしばらくパーソナルトレーナーの指導も受けましたが、あまり改善しませんでした。

13年前よりはだいぶ足がマシになり、一般人を驚かすぐらいのタップを踏む事はできます。だけどそれは自分が昔目指していたタップダンサー像とは大きくかけ離れたものです。

ebayの動画では度々「正しい手法で行う」という事を口にしますが、それはこのような自分の失敗から、皆さんにその大切さをお伝えしています。

このタップダンサーとしての自分の人生に絶望する気持ちもありますが、今はいづれ足が治ったらいいなぐらいの軽い気持ちでいます。

タップダンスも続けてますが、さすがに昔のように毎日何時間もというのはなくなりました。週に3回ぐらいタップダンスのスタジオへ行き練習しています。

ebayに出会ったのは日本に帰ってきてしばらく経った後、今から9年前です。

この時の葛藤については是非電子書籍を読んで知って欲しいと思います。

偉そうに聞こえるかもしれませんが、若い頃タップダンスに取り組んだぐらいの気持ちで取り組めば、大体の物事は成功できると思っています。

タップに比べれば、全く複雑ではないebayでは、早い段階で稼げるようになりました。

4年程ebayで生活をし酸いも甘いも経験し、そこで得た知識を元にebayの情報発信やスクール運営をするようになりました。この辺は皆さんが知る自分の姿です。

最近ではebayをしながら世界を旅するようにもなりました。一昨年は東ヨーロッパを5ヶ月半、去年はアフリカから西ヨーロッパにかけて5ヶ月間旅をしました。そして台湾一周し、香港や韓国も周りました。

昔の夢の一つ、それは「タップの板を持って世界中を旅し、世界中で踊る事」でした。

昔の夢と少し形は変わりましたが、似たような道を辿っている気がします。

タップダンスでは上手くいきませんでしたが、それでも他の人々が経験できない貴重な経験を沢山しました。

そしてebayと出会ったおかげで、自分の人生は変わりました。

是非皆さんもこのebayの魅力を存分に味わい、人生を楽しんで頂きたいと思います

(*アフリカで訪れたマサイ族の村にて)